悲しさは常に心に内包されているべきである。

 

いつごろから「自分が思う自分が自分だ」という家畜にも劣るような思考が広まったのだろうか。

 

自分が自分であるのは周りに形作られているおかげだということをわからないような、

そんな人間は早いところ社会の輪からドロップアウトして自分を見失ってしまえば良い。

 

確立した個などありはしない妄想を信じ込み、ひたすらに唯我独尊を気取る人間の周りには、

次第にその偶像を支えるただただ空っぽなフォロワーが増えていくだけだ。

そんなフォロワーに支えられて作られた軽い自分を自分だと喧伝する輩を見るとなんとも嫌気が刺してくる。

 

コミュニティにベチャベチャに浸った人間ほど、自分のことを確立した人格を持つ人間だと思うようになる。

 

コミュニティの意志の集合を自分の意志と錯覚してしまうのは、ただただ猿から進化した人間の当然の習性に過ぎないのだけれども、それさえも分かっていないというのが、人間の限界を見るようで悲しくなる。

 

以上に述べたような事柄は残念ながら自分にも当てはまる。意地になって否定するような「特別な」自尊心も持ち合わせてはいない。これは実に憂うべきことだと思う。

 

幻想は人間にしか持ち得ないものである。理想郷を作ろうとして実は暗黒郷にいてしまう、というような慈しむべき愚かさも人間には欠かせない要素だ。

 

悲しさは常に心に内包されているべきである。

 

生理的な欲求や習性から抜け出せない人間の貧弱な精神というのは、蔑み続けるべきものだ。ただ同時に、それが自分の中にも存在するということは人間である以上認めなければならない。

 

認めるということは、楽しむということに直結するように最近は思い始めた。

 

自分の下賎さを認める。自分の愚かさを認める。自分の自堕落を認める。

自分がただ一つの小さなコマでしか、部品でしか、代替品であることを認める。

自分の人生がこの次元のなかで認識されない程度のものだと認める。

自分が考える「特別なコト」が「平凡なコト」であることを認める。

 

歪んだ自意識を打ち壊せば、自分というものは想像しないほど大きくなれるものである。

自分というものを薄くするということが、一番自分を大きくしてくれる。

 

自分とは何か。

それは周囲の環境によって形成されるなにかだ。

 

 

 

 

 

 

 

※チョベリバ酔っている。