最近気づいたことなので、忘れないうちに書いておこう。
世の中の人の行動パターンとして「ハムレット型」と「ドンキホーテ型」とあると思っている。
「ハムレット」はシェイクスピアの書いた戯曲であり、有名な悲劇だが意外とパッとあらすじが思いつく人は少ないのではないだろうか。
ハムレットからの視点で見たあらすじはこうだ。
ある日王様である父親が死んだ。自分は王子だけど、まだ若いからおじさんが即位した。
そしたら父親が枕元に立って「俺は弟に殺されたんだ」という。しかもおじさんは自分の母親を娶っている。
「え、この状況マヂ最悪じゃん。というかおじさん鬼畜やん。ぶっ殺す!」と思い立ったはいいものの、「えーなんかどうすんのよこれもうよくわかんねぇよ。幽霊が本当の事言ってるかも分かんねえしお母さんに本当の事聞いてみないと分かんねしうー」
うん。以上。最終的な結末としてはおじさんをハムレットが殺して終わる。まあ見所はハムレットが思い悩むシーン。
ハムレット型の人間はその物語の主人公と同じように、行動するまでひたすら思い悩む。
人が困ったりしているのを見て、思い悩む自分に、得てして人は酔いがちだ。「悩んでいる彼のことを心配している彼の事を思い悩んでいる私素敵!」みたいなね。これは自戒のためにも言う。
人が困っている姿を見て、ただ頭の中で思い悩んでいるのは偽善だ。何か問題があるのに行動しないのも偽善だ。対象に対して行動を起こさないというのが最高の偽善者の定義だ。心のうちにあるものを形にして出さなければ、人は認識してくれない。
考えていたけれど何もしなかった人というのはすなわち何も考えていなかった人と同じだ。心があったとしてもその心を外側に出そうとしなかった時点で心がないのと同じことだ。優しさが心にパンパンに詰まっていたとしても、出さなければ何もないのと同じことだ。
能力は出した時に人から見える形が測定される。出していない能力は、すなわち無い能力だ。
これくらいに考えていないと徐々に徐々に自分の考えている自分の姿と、人が捉える自分の姿にギャップが出てくる。そしてそのギャップがだんだんと自分を変な方向に引っ張っていく。
「俺はまだ本気出してないだけだ」
「俺の本当の姿を知らないからあいつらは」
「自分の考えていることなんてあいつには理解されないから」
こういう思考になってしまうともう最悪だ。相手の見えている能力と、自分が把握している自分の能力を比較してどんどん孤立していってしまう。相手の見えている能力なんて氷山の一角でしかないのに、それと自分の氷山を比較して悦に浸ってしまう。
自分の相手に見せている姿なんて、自分からしたらごくごく一部の大きさでしかない。これは間違った認識ではない。だけれども、この認識に至ったなら同時に、
「自分から見えている相手の姿なんて、相手からしたらごくごく一部の姿でしか無い」というところに気づかなければならないのだ。
以上のような話で、Twitterで広められたこの画像を思い出す人も多いと思う。
普通に考えれば、葉っぱが大きいほうが土の中にある実も大きいよな…
この絵自体が不自然である。まぁ中には奇形の人参もあるのかもしれないけどね。そんあ都合よく中身が大きいほうが見える部分が少ないなんてことはない。
試しにこの絵のした半分を隠して冷静に見てみればいい。
下にある形を見ても尚、大きさは葉の大きさに見合った大きさを想像するはずだ。
根と葉の大きさを揃えるのが、自他ともに健全、というのが結論。
根が大きいと自覚する自惚れ屋は葉を大きくするべきだし、
葉が大きいと自覚する人(あんまりそんなに謙虚な人はいないと思うけど)は根を大きくする努力すればいい。
この絵に称讚のコメントを送る人は多いけれど、ねぇ。負け惜しみに過ぎないよね。
絵みたいに根っこの部分までは見えないだろうから、どっちかというと
ものすごいやっつけだけど、どっちかというと、
こういう自分の自尊心を満足させるためだけの絵になりかねないと思うのよね。