灰被り

シンデレラストーリー、というありふれた言葉がある。
いつか自分を救ってくれる王子様がやって来てくれる物語を指す言葉だ。シンデレラストーリーを期待する女の子たち、というような用例しか見たことがない。

シンデレラは果たして自分を救ってくれる王子様を待ち望んでいたのだろうか。待ち望んでいたからこそ意地悪な姉達の仕打ちにも耐えられたのだろうか。どうもそうは思えない。

きっと彼女にとっての灰被りの毎日は緩やかなy軸線の上にあり、まさか魔法使いが現れるという極端なx軸線上の伸びを期待していなかったはずだ。逆に言えばそう言った曲線の急上昇を期待しながら日々を過ごしていたとしたらそれは自分が不幸であると思いながら毎日を過ごしていたということであり、画餅の未来にじりじりと照らされる辛さがあっただろう。

自分が想像する未来、想定する延長線上があまりにも高みにあり、見上げれば見上げるほどにギシギシと心が軋む音がする。射角のそとにある標的を無理に狙おうとして狙えず、かと言って射角15度くらいの地点には何も見出せない。

正直今どういう意図を持ってこの文章を書いているか自分は明確な意思を自分の中で見出せない。言葉と向き合っている時というのが、孤独に浸るには一番持続性があるからこう書き連ねているのだろう。


今自分は一人だ。どうしようもなく独りだ。一人で生きていかなくてはならないし、当分は一人で生きて行くべきなのだと思う。孤独を抱えて努力するというのは、時々泣きたくなるほどむなしくなるときがあるけれど、その度に自分を鼓舞するくらいの気力は残っている。


一人悲しみに浸るというのも悪くはない。自分は、自分を悲劇の主人公になぞらえることがどうやら好きなたちらしい。

心の自慰行為、と自分は勝手に呼んでいる。適切な相手がいれば吐き出せる感情を自分で解消する為の一連のステップ、儀式。それが他者から見て実際の自慰行為と同質のキモチワルサを持ってしまうのは仕方ない。

このブログもその一連のステップに連なるものだと思っているから、この文章は事後のティッシュみたいなものか。それを公衆の面前で書くということには少々ためらいがあるが、こうでもしなければやっていけないのでこれもまた仕方ない。


今の自分の精神状態が不健全な状態であることは重々わかっている。けれども、不健全な方がより良い未来に進めるのではないか、というような教義を自分で持ちつつあるのだからこれもまたまた仕方ない。


仕事は順調そのものである。入社時とは比べ物にならないほど成長できていると自負している。モチベーションも高い。仕事に対して誰よりも熱意があることは、誰もが認めてくれていると思う。


けれど仕事ができれば幸せ、というのは絶対に嘘だ。

仕事が出来ても今の自分は幸せではない。出来が悪くてもいい。自分と対話してくれる人が、たった一人でもいさえすればいい。自分と対等に話せる人が、男でも女でも、いればいい。

対等に話せれば、というこの条件は自分の思い上がりを孕んだ言葉なのだけれど、こういう感情は一度生まれてしまったらもう当分はどうしようもないということもわかっている。


今の自分は自分を追い詰めることでしか、自分を慰めることができなくなってきている。真性のMだ。

どうしようもない。こんなことが誰に相談できる。誰が自分のこんな心中に分け入ってくれようと思ってくれるか。反語である。


社会に出てから、ああもう自分に真の意味で興味を持ってくれる人はいなくなるのだな、と絶望した。あの直感は悲しいけれど多分正しいのだと思う。


けれど、誰か、誰か一人くらいは今の自分に歩み寄ってくれる人がいるのではないかと期待してしまっている自分がいる。信仰のように、仕事に打ち込んでさえいれば誰かが助けに現れてくれるのではないかと、輝かしい未来が当然のようにだんだん見えてくるのだと、今の自分を素晴らしいと、よくやってると、助けたいと、そういう都合のいい物語的なキーパーソン、アーサーにエクスカリバーを授けたマーリンやシンデレラにカボチャの馬車を与えたまほうつかいのような、が現れてくれるのではのではないかと、希望を持ってしまっている。

この希望は信管接触式の時限爆弾のようなもので、少しでも疑いをもてば破裂して、自分を殺すということもわかっている。

だが、自分を悲劇のヒロインのように、灰被りの少女のような境遇になぞらえて、悦に浸ることでしか今は自分を鼓舞することができない。キモチワルイと思う自分もいれば、少なからず慰められる自分もいる。


そんな自分のキモチワルサを知りながら、それでも希望を捨てきれず、またこれ以外に道を知らず、盲目的な努力を続けているのが、今の自分だ。