聖剣の出自

中学生くらいのころ観た映画で、印象に残っている映画がある。

ジャンヌ・ダルクの生涯を少しダークに描いた映画」だった。この頃の自分は中二病真っ盛りで、「善とは」「悪とは」「正義とは」みたいなことを悶々と一日考えていても飽きないような、変人だった。

概念をこねくり回すのが好きなのは今でも変わらないけれど、「それ考えてどうすんのよ。どこで話すのよそれ」というようなことを考えていたのは多分人生でこの時が最高潮だったし、最高潮であると信じたい。

 

まあ、それはいいとして。

 

そのジャンヌ・ダルクの映画で私にとって衝撃的だった場面があった。

ジャンヌが敵軍に捕らえられ神への信仰心を自問自答する、という場面だ。

 

「私は草原で剣を見つけた。あの剣は神からの啓示であり、それを信じて私は今まで闘ってきた。」

 

超常的存在がジャンヌのこの発言に問う。

 

「お前にその剣をくれたのは本当に神だったのか。気まぐれに戦士が草むらに捨てていったのでは?あるいは偶然誰かが落としたものだったのでは?」

 

「ただ、お前がこのような可能性を捨てて取ったのは、神の啓示という非現実的な理由だった。」

 

「剣の出自にお前は、自分に最も都合の良いものを選んだのでは?」

 

結論から言うと、この彼に対するジャンヌの答えは語られなかった。ジャンヌは何も言わぬまま、火刑の段を上り、処された。

このくだりは何故か中学生の自分に突き刺さった。その証拠に今でもこのことを思い出す。

あのジャンヌの「神話」の基盤が簡単にゆらぎ壊れた時、自分の中でも何かぽっかりと何かを壊されたような気がした。

またあの頃はジャンヌと同じ問いかけをされたときに、自分も何も答えることができなかっただろうと、そしてジャンヌも答えを自分で見つけられないまま、死んでいったのだろうと、絶望的な結末に思えたからだ。

 

だが、今では少し違う見方ができる。

 

ジャンヌを聖戦に走らせた剣にはきっと決定的な意味はなかった。

剣はただのきっかけに過ぎず、彼女が偉業を成し遂げることができた一番の理由ではない。大事だったのは何かを成し遂げようとする彼女の意志であった。

 

剣の出自がどんなものか。

それが価値であるものであるか、そもそも実在するものだったかどうかを問うことに果たして意味があるのだろうか。

 

人は思い出を脚色して自分だけの物語を作り上げる。

きっかけはしばしば重要な立ち位置を物語では与えられるけれど、現実で重要なのはきっかけではなく、その後にその物語の主人公が何をしたかだ。

 

例えば自分のこの文章を書かせたのは「ジャンヌ・ダルクの生涯を少しダークに描いた映画」だ。実はこの映画のタイトルもはっきり分かっている。ミラ・ジョボヴィッチ主演のこの映画だ。

 

ただ、おそらくこの映画を実際に観た後ではこの文章は書けなかったと思う。申し訳ないがジャンヌの自問自答のくだりも、「こんな風だったかなぁ」とぼんやりしながら書いた。この文章に限って言えば、このくだりを映画に忠実に描写することに意味はない。

 

ただ、この書き物の最初のきっかけである映画が、もし私の妄想であったとしても文章が意図するところと価値に変わることはないだろう。

何を言わんとするわけではないが、物語には往々にしてそういうことがあると今では思う。