テレビ/新聞/ラジオ/旧メディアが好きだ。

ネットはどんどん情報を絞っていくメディアなんだと、最近確信しつつある。

どうしても消費者/サプライヤー共にそういうところに利点があるのだからしょうがない。

 

消費者としては「望む情報」が欲しい。

サプライヤーとしては「望まれる情報」を提供したい。

 

これがガッツリ合うメディアがネット上における良質なメディアだ。だけども、それだけだとあまりにもつまらないと最近は思う。

 

自分はGunosyとGoogleAlertを利用している。どちらも自動的に自分がチェックしたい情報を配信してくれるので大変重宝している。

だけれども、最近は少しこれ以外にも情報源が欲しいと思っている。

どちらも「過去の自分が欲しがっていた情報」しか持ってこないからだ。もちろんこの「過去の自分が欲しがっていた情報」というのは今現在の自分が欲しがっている情報ではある。それは否定しないが、この情報だけだと自分の幅はどんどんと狭く、「悪い意味で」先鋭化されていくのだと感じている。

 

最近テレビを見なくなった。新聞を読まなくなった。書店に行かなくなった。

そのことで、昔よりも効率よく情報を仕入れることができるようになってきている。

「必要のない」情報は見ることがなくなった。

 

けれど、情報とは/世界とは本来必要のない/意味付されていないもので、意味付することに楽しさがあるものではなかったのだろうか。

昔は知らなかったものを知り、自分の生活に取り入れ、意味付をしていく。そういう循環こそが自分に必要なものだったのではないだろうか。

 

旧メディアが撤退する時期に来ていると宣う論者は数多くいれど、自分はそんな世界は絶対に来ないと思っている。少なくとも「昔の自分が興味のなかったものを知るために情報源を欲している」人たちがいる限りは、今のようなネットのビジネスモデルを原型とするメディアが主流となることはない。

 

テレビは家族の旅行の話題を作ってくれた。新聞は父との政治の語らいの場を作ってくれた。ラジオはまだ知らないアーティストの好きな音楽を教えてくれた。これらは「場」を作ってくれたが、ネットの話題が「場」を作ってくれた事はない。

 

将来的にネットのコンテンツしか見なくなる日が来るのだろうか、と考えたときに想像される人と人との関わり合いは今よりも数段寂しいものになるような気がしてならない。

考え方が古いのだろうか。

 

P.S 雑誌はなくなるかも知らんね。専門性を求める人たちはどうしてもネットに流れてしまうのは仕方ない。一部の「権威ある雑誌」と「思想を持った雑誌」は残るだろう。方向性やテーマを持たず、ただただ情報を収集した雑誌は滅ぶし、滅ぶべきだ。